柴田聡子さんの『後悔』を聴いて、の話。

ある日、柴田聡子さんの『後悔』をMVなしで耳に通しました。

(『愛の休日』アルバム、ばんざーい!)

 

www.youtube.com

 

2017年に発表された楽曲。

地上波の番組でtofubeatsさんが紹介し話題になったようですが、

その時も、このMVが持つキュートなインパクトに言及されていました。

 

なので、補助線(←筆者の名前です)も このMVがお気に入り。

ですが、車からお顔や足を出す柴田さんを眺めたい欲を抑え、

曲だけに集中して味わうと、この楽曲の魅力がより一層 際立ったので、

その時に感じたことを記しています。

 

つまりは『後悔』に/を、ひたすら共感・称賛していくだけのラヴレター感想文です。

(でも、どなたかがこの記事をきっかけに少しでも

『後悔』に興味を持ってくれればとんでもなく幸いです)

1.私にとっての この曲最大の魅力

ああ、抱きしめていれば

抱きしめ合ってれば

自然と本気に

抱きしめてくれたら

抱きしめていれば

抱きしめ合ってれば

自然と本気に

抱きしめてくれたら

いきなりクライマックスの話をするのですが、

この曲の最大の魅力は、私にとっては絶対ここなんです。

曲の転調、歌詞の並び、完璧!!

 

曲の冒頭から終盤まで駆け上り、この箇所にたどり着くたびに、

私の中のいろいろな思い出がドミノ倒しに遭ったかのように、

あるいは、オセロの駒が一気にくるりと色を変えてみせるように、

「もしかして、あの『良い』思い出だって

 ひょっとしたら私、後悔してるんじゃないかな」と

自分の思い出が一斉に塗り替えられるドキドキを味わいます。

その切なさが、キラキラ瞬きながら胸の中を占めていくのでした。

 

人が激しく後悔する時って、脳内にこんな輝かしいメロディが流れて、

脳内でこんなふうに声を絞り出して、自分に話しかけているのかも。

そんなことを思わせてくれます。

そっか、本当に辛い時って人は明るく振る舞うのだなと。

 

ここのクライマックスについては、また最後に触れます。

 

2.前半の歌詞

ああ、きた、あの曲がきた

ねえ、いま、きみも気づいた?

分かります、分かりすぎます。

距離を縮めるきっかけを、その人本人にまつわる話題じゃなくて、

音楽とかコンテンツに頼ってしまうひ弱さ。

しかも実際には、そんなことすら話しかけられなくて、

心の中で「あの人も反応してるかな、ふふ」と気持ち悪くニタニタして終わる。

このフレーズだけで、この子の恋成就の道は険しそうだとひしひしと伝わります。

 

目深の帽子の奥の

まぶたに光が跳ね返る

帽子で隠れて見えにくい目をあえて覗きに行く果敢さ。

そういうところだけは積極的に行けるんですよね。

謎なエネルギーのほとばしらせ方。

しかも光が跳ね返って、結局 目は見えなくて。

でも、光がキラキラしてきれいだなあって論点すり替えたりして。

 

さらにこの跳ね返った光にズームしながら、次のBメロ?サビ?へと入る。

勝手にそんな演出が脳内を駆け巡ってしまう展開。

光景の流れと音楽の盛り上がりが息ぴったりなリズムを織り成します。

 

背すじを伸ばして準備する

気もちをおさえて準備する

このメロディの歌詞の脂の乗りようには本当にため息がこぼれます。

ここは、今から好きな人の魅力を受け止める準備に入ったとも読めるし、

最終的に後悔する自分に この時点ですでに気づいていて、

その後悔を受け止める準備に入ったとも感じました。

二重の意味なのかなと思うと、本当にうっとりする一節です。

 

背すじを伸ばす時には、背中で手を組んでつま先立ちをするような、

気もちをおさえてる時は、胸の前で両手で胸を抑え少し身を強張らせるような。

そんなジェスチャーの対比もあるように感じ取れます。

 

みんなは気づいてないみたい

暗やみの中で踊りだす

そっとひとりで躍らせておいてあげたい気持ちで満タンになりますが、

ここも"暗やみ"が誰にも見えないところでウキウキ小躍りしてるようにも、

後悔が差し迫っている心境を踊りでごまかそうとしているようにも感じます。

 

ああ、足のうごきがいいね!

うつむき加減の背中

抱きしめたくなっちゃう

"足"や"背中"を褒めるって、相手のことをすごく観察していて、

一見ものすごく熱い想いを秘めているよう見受けられますし、

ここは、素直にそういう解釈をしてもいいと感じます。

 

それでも、なぜか、どういうわけか

「この子、実はそんなにこの相手のことを知らないのでは?」

そんなふうに思わされる感覚が個人的にはツボでした。

これは身勝手な解釈かもしれませんが、そもそも

"足のうごき"や"うつむき加減の背中"を視界にきれいに収めるには

相手と多少離れた場所にいる必要があります。

(そもそも真っ向から顔が見られていない表れでもありますね)

曲の冒頭から、おそらく相手の精神的な視界には入っていないようですが、

物理的な意味でも心の距離の意味でも、

相手を近くから見据えたことがまだないのかもしれません。

 

とはいえ、恋とはそういうものですよね。

 

相手への気持ちが積もりに積もりすぎて

体の部位を愛でるところまで到達してしまったのか、

それとも「相手を好き」という枠組みだけが勝手に心に生まれたけど、

実際には中身が伴っていなく、仕方なしに(という気持ちも無意識ですが)

胸キュンポイントを見つけた結果が、美術鑑賞にも似た情の持ち方だったのか。

どっちの気持ちの表現にも取れると言っていいのか、深読みしすぎなのか。

 

ああ、手を取り合うこともないけど

夢のようにただたのしいね

(中略)

ああ、ほほえみ合うだけで

何もかも忘れてただ楽しいね

そばにいたその瞬間は、本当にそう思っていたのかもしれないけど。

それって本当にそう思ってたのかな。そう思おうとしていただけなのかも。

こんな気持ち、嘘なのかもしれない。でも言葉にすれば本物になるかも…

そんな想いを覚えるフレーズたちです。

 

ここから、また出だしのメロディに戻ります。

 

3.後半の歌詞

きのう名前を変えたよ

きっちり外国風のに

赤いソファが届くよ

畳に置いたら変かな?

分かります。こういうこと、たまに言わせてあげておいてください。 

これもきっと直接本人には告げてないのでしょうけど。

 

ここも、面白い対だなと感じたのですが、

"外国風のに"という言葉から、変える前の名前が自国風

もっと言えば、古風・クラシカルな名前の持ち主だと想像できます。

そして、"赤いソファ"に"畳"。

ここも"外国風"と自国風(もう日本人の話だと仮定してよさそうですね)とペアに。

 

赤いソファと畳。

(想像させる色合いの組み合わせはすごく素敵なのですが)

素直に考えると、簡素で落ち着きある畳に、赤が映えるソファはミスマッチ。

つまり、この子は外国風の名前が似合うタイプの性格や容姿は持っていなさそう。

その上で"暗やみの中で踊りだす"ような子なのですね。

 

さて、続けます。

 

ここからしあわせ祈ってる

遠くのあの子に祈ってる

みんなもみんなで祈ってる

ありがとう、おめでとう、また会おう!

ここ!この曲の中で2番目に好きです。

突然、時間軸が吹き飛ぶ感じに加え、吹き飛ばされた先がこの切ない多幸感!

大好物です。大好物です。大好物です。

 

今から書くことは全然言語化できない感覚なのですが、

ここの4行には、ものすごく日本語を感じます。

この曲の歌詞の中で一番 翻訳しにくそうな印象を受けます。

ひらがなの"しあわせ"・"遠くのあの子"・"みんなもみんなで"。そして4行目。

 

後悔する感情の後に、こういう祝福の気持ちに移り変わるのが自然?ですが、

ここでは自分を労わるよりも先に相手の幸せを祈っています。

どういうわけか こうなっちゃうんですよね。こうだから成就しないのか…

この子が祈らなくたって、周りはしあわせなのではないか。

(でも "みんなもみんなで祈ってる"ところがグッときます)

 

"ありがとう、おめでとう、また会おう!"

そんなことを知ってか知らぬか、

空に放つ この3つのあいさつが大好きです。

 

ああ、バッティングセンターで

スウィング見て以来

実は抱きしめたくなってた

ここは『後悔』を聴き込む前から耳にするりと入ってくるキラーフレーズ。

でも、聴き込む前と聴き込んだ後では味わいがまるで変わるひとこと。

ポップでキャッチーでキュートな打ち明けなんだけど、

実際はこの子の後悔の念が、涙が出る直前みたいに

じわりと にじみ始める一節だから。

 

ああ、ほほえみ合うだけで

何もかも忘れてただ楽しいね

先ほど紹介したこの一節は、この直後に来るのです。

後悔する感情が心でうずき始めているのに、

すかさず「ううん、違う違う。私は幸せなんだった」と言い聞かせる切なさ。

芽生えた後悔の気持ちも含め、意図的に"何もかも忘れて"自分を説得にかかる。

 

押し寄せてくる後悔の気持ちが膨らむかのように、音も盛り上がりを見せます。

 

4.クライマックスふたたび

こうしてやってくるクライマックス。

後悔の気持ちと真っ向から向き合わざるを得ない心境に立たされる。

「もしかして、私、後悔してる…?」の気持ちなのか、

「そろそろ認めるか、私の後悔」の気持ちなのか。

いずれにせよ、1行1行がとんでもない輝きの鋭さを放っていて、心が痛い…

 

ああ、抱きしめていれば

勢いで私から行動を起こしていれば。

 

抱きしめ合ってれば

それで、あなたにもきちんと共犯者になってもらっていれば。

 

自然と本気に

わー!!!!!心が保たない…

私がこの曲からたった1行を選ぶとしたら、迷わずこれです。

この恋に勝算がどれほどにないか。

それなのに、どれほどにハッピーエンドを期待していたか。

そして、繰り返しになりますが、それがいかにありえないことだったか。

それらの気持ちが窒息しそうなほどに、この6文字に詰め込まれています。

今これを書いているだけで、息が苦しい…

 

抱きしめてくれたら

ありえないのに。

ありえないのに「どうしてそうしてくれなかったの」と感情に少し怒りが芽生える。

自分が行動を起こさなかったことへの後悔と向き合うのがしんどくて、

感情が苦し紛れに逃れようとしてる。

いつの間にか主語が自分から相手に変わり、"抱きしめていれば"の気持ちを上回る。

 

抱きしめていれば

とりあえず形からそういう雰囲気に入っておけば。

(もうその最終手段に出ようと考える時点で、脈なしなのには気づいてる)

 

抱きしめ合ってれば

それで、あなたもちゃっかり巻き込んじゃっておけば。

(「何だかんだ あなたも悪い気はしないんでしょ?」と根拠なく期待する)

 

自然と本気に

わー!!!!!!!!!!

"自然と"と"本気に"の掛け合わせが、信じられないほどの呪文に。

「いいよね?ほんの一滴、期待するぐらい迷惑じゃないよね?」

 

でも、その一滴はあまりにも重くて濃くて。

"自然と"関係を築けたように見える2人には、当然見えない積み重ねがあり、

"本気に"なれた2人には、それなりの理由がある。

 

そんなこと わざわざ言葉にされなくたって分かっているけど、

それでもこう吐露せずにはいられなかったぐらいには本気だったから。

とはいえ、こうやって口にしてしまっていること自体も

未来の後悔を生んでいるのが辛い。

 

抱きしめてくれたら

そうして最後には、後悔の感情すら置いてきぼりにし、

「抱きしめてほしかった」という寂しさだけが ただただ残る。

でも、この一言で締めくくる、ちょっぴり甘い心の持ち方こそが

この後悔の念の源だったのかもしれないし、

その甘ったるさが、この子の魅力でもあるように感じる。

抱きしめてさえくれれば、2人は"自然と本気に"互いを想い合えた。

そんなふうに思い込める甘ったるさが。

 

********************

でも ひょっとしたら、"自然と本気に"のフレーズには

もうひとつの意味があったのかもしれません。

 

それは、この子自身の恋愛感情に対して。

 

相手に近づけなかったのは、行動を起こせなかったのは、

もしかしたら自分が本当に相手に恋をしているのか

自信がなかったからなのかもしれません。

 

勢いで抱きしめて距離を縮めれば、あるいは、

あなたから形式的にでも「いい感じ」を演出してくれれば、

自分の気持ちを"自然と本気"なものか確認できたかも。

そうでなくても、"自然と本気"に見せかけて、

本物の恋に仕立て上げる勇気を持てたかも。

 

「本心が分からないのは、あなただけじゃないんだから」

この子は相手と一緒に悩みながら、ふらつきながら、

自分を奮い立たせながら、恋愛の小道を歩みたかったのかもしれません。

 

そんなふうに自分を恋愛に向かわせてくれるチャンスを

逃してしまったことの後悔が、ここでは描かれているのでしょうか。

それとも、これも深読みしすぎでしょうか。

********************

 

こんなふうに、補助線が妄想を張り巡らせている間に、

クライマックスの勢いある独白が終わり、キリよい余韻を漂わせ、

『後悔』はするりと終わるのでした。この潔さもかっこいいですね。

 

5.この曲の本当のエンディング

曲の直後。

ぽっかり穴が空いた気持ちを抱えさせられますが、

「実はそんなことないかも」と

割とすぐに思い直させてくれる読後感の良さも、

この曲の素晴らしさのひとつです。

 

なぜなら、この曲の本来の締めくくりは、

ここからしあわせ祈ってる

遠くのあの子に祈ってる

みんなもみんなで祈ってる

ありがとう、おめでとう、また会おう!

だと思うからです。

(曲の構成としては今の形で文句なしなのですが、

時間経過順に並べると、この箇所が最後という意味です)

 

ストーカー気質だったり、思い込みが激しかったり、

勢いに任せちゃおうとする危なげな魅力あるこの子は

最終的には こうやって前を向くのだと示唆されています。

暴走気質だとしても、こんな4行を抱きしめて

前を向こうとすることができるこの子に、補助線は感銘を受けました。

 

この子が自分に歌い諭す言葉。

それが嘘か誠かは大した問題じゃなくて。

まずは、こういった言葉を自分のために、

あるいは、この曲丸ごとを自分のために、

歌ってあげられる余裕を持てることが、

まずは大切なんじゃないかと思わされました。

 "ありがとう、おめでとう、また会おう!"

この3つを自分のために口にする余裕。

 

そうすれば、それこそ形から前向きになっちゃえば、

"自然と本気に"その前向きさに力が与えられるのだ。

 

エンディングを中盤に持ってくる構成。

この子は後悔の感情に終止符を打てていないから、

最後には持ってこれない描写なのだと理解できます。

でも最後に持ってきていないにもかかわらず、

この4行の強さが (すみません、どうしても言語化できません)

今は強がりや条件反射でこう言ってるとしても、

最終的には ここが落としどころなのではないかと

薄々気づいていることがしっかり伝わります。

聴けば聴くほど隙がない言葉並べですね。

 

6.終わりに

これだけの心象がわずか3分以内で

ノンストップに軽やかに流れ去っていく。

 

確かに後悔のひとときって、

ひとつひとつはそんなに長くなかったりする。

でも、その短い時間を(人によってですが)

幾度も幾度もよみがえらせてしまいながら、

時に、その感情やその時の自分にきちんと

"ありがとう、おめでとう、また会おう!"と

言えたつもりになるんだけど、

それが嘘だったかのように無に還り、

また苦しい感情として戻ってきたりする。

 

それでも七転び八起きに何度でも、

"ありがとう、おめでとう、また会おう!"って伝え続け、

その後悔が成仏する"しあわせを祈ってる"のが

感情の生みの親として与えられる

一番の思いやりなのかもしれません。

 

また、この曲を聴いて、

「ああ、もしかしたら、私はこんな後悔を

まだ人生で味わえていないかも」と

不思議と(通常では起こりにくい)後悔という感情に好感を持ち、

その歌詞のような後悔を覚えたくなる気持ちになりました。

人生を逆走し、この瞬間を捕まえに戻りたくなる衝動。

「後悔していないことを後悔する」感覚になったのは初めてだったので、

今までに経験したことのない心の反応に出会わせてくれる一曲となりました。

何でもあるこのご時世に「はじめて」と遭遇できることの奇跡。

さらに、そのきっかけを生めるという類稀なる才能とセンスと感性!

 

そして、好きな人に本当に見せたい一面は、

『後悔』を口ずさむ(けど高音がヘタレてしまう)

そんな姿だけど、きっとこの子みたいに

それを見せる日は訪れないのだろうなと思うばかり。

 

そんなあれこれを考えさせてくれ、

とびっきり楽しくもしんみりした妄想を

味わせてくれた柴田聡子さんの『後悔』。

含意あふれるひとつひとつの言葉は、

一見さらさらと繰り返される旋律と同じ軽さながら、

補助線の心の奥まで溶け込んできました。

 

このブログ記事は結局何だったのかと言えば、

柴田聡子さんの『後悔』にどれほど夢中にさせられているか。

そのことを明かすだけの文章です。

 

特に最後はとりとめもなく、乱筆乱文すぎましたが、

ご笑覧・ご清聴ありがとうございました。(と言いつつ、追記があります...)

 

(追記) 5月4日

今日、柴田聡子さんの公演を観ることが叶いました。

 

念願の視聴室その3。前から2列目の良位置。初めての柴田聡子さんの公演。

 

とびっきりの時空間を味わいました。

弾き語り公演が放つ、あの独特な人間臭い発熱 (褒めてます)。

その見えない熱気は天井のミラーボールで浮き彫りとなり、

ギターの音と柴田さんの甘い声を乗せて会場の隅々まで運んでいきます。

もちろん実際には見えていないのですが、その一連の漂いが見えたかのよう。

 

柴田聡子さんの弾き語りは とても自然体で全く押しつけがましくないのに、

なぜか聴き手の補助線が丸裸にされた気持ちになり、不思議な感覚でした。

聴いているだけなのに、心の中を暴かれている気持ち。でも心地よい気持ち。

 

いろいろと書きたいところなのですが、これは『後悔』の記事なので、

あくまでも『後悔』の話に留めさせていただきます。

 

今日の公演、ラスト曲として奏でられました、『後悔』!

初めて聴くアコースティック版という興奮と、

ここ最近ずっと聴覚でしか堪能してなかった『後悔』が

ご本人が体を揺らしてギターかき鳴らして美声を出して

鳴り響いている事実に混乱し、受け取れる情報量を超えてしまい、

もったいないことに目を閉じながら聴くことしかできませんでした...

しかも、ただでさえ こんなあたふた状態ですから、

全てが届いてくれているのに、感極まりすぎて何も覚えていません。。

 

微かに覚えているのは、収録版よりほんの少しテンポがゆっくりに聴こえたこと。

そのテンポも本当に素敵で、あたふたの中でも体は確実に安心感を覚えました。

ゆっくりした『後悔』は、収録版の後日談のような空気をまとっていました。

まるで、この子がおばあちゃんになってから、暖炉の前で孫に向かって

「あのね、昔、こんな恋をしたんだよ」と当時を振り返っているかのように。

 

収録版の疾走感を念頭に書いたこの記事でしたので、

今日の生『後悔』を聴いたことで、また新たな妄想が誕生すると予感しました。

どんな想像世界が広げられるか楽しみです。

 

そして、しっかり耳に心に刻み込むために、

また生『後悔』が聴ける日が訪れますように。

 

柴田聡子さん、心奪われる楽曲制作とパフォーマンス、

いつもいつも ありがとうございます◎

"ありがとう、(おめでとう、)また会おう!"